東京高等裁判所 昭和50年(ネ)1351号・昭50年(ネ)2358号 判決
控訴人は本訴抗弁及び反訴請求原因として、被控訴人の母いさと荒井勝五郎、同タツとの間になされた本件養子縁組は、被控訴人の母いさの生家である三上家と婚家である新倉家との家格調整の便法として仮託されたもので、縁組意思を欠く無効のものであると主張するので、この点について判断する。
養子縁組は、養親子間に人格的に親子関係をつくるものであるから、当事者間の縁組意思の合致することが重視され、これを欠くときは無効とされる(民法八〇二条一号)。戦前、家督相続制度のもとにあって養子縁組が多く養家の継承者を得るために行われていた時においても同様の規定(旧民法八五一条一号)が設けられていたのは同趣旨からであり、養子縁組が養家の継承者を得るため以外の目的を果すための便法として名目上仮託されたにすぎないときは、たとえ縁組届出自体につき当事者間に意思の合致があったとしても縁組意思を欠くものとして無効とされたのである。本件養子縁組は、旧民法施行当時の大正八年三月六日にその届出がなされたのであるが、当事者間に争いのない右縁組当時養親である戸主荒井勝五郎には法定推定家督相続人たる男子正八郎(大正二年八月二八日生)があり、養女いさは養子縁組による入籍から新倉伊七との婚姻により除籍されるまでの約一カ月の期間中右勝五郎の戸籍にとどまっていたにすぎないという事実によれば、右縁組が養家の継承者を得るために行われたものでなかったことを認めることができる。
次に、≪証拠≫によれば、次の事実を認めることができる。
1 被控訴人の母いさの生家である三上家は、埼玉県所沢の旧家としていさの父長五郎の兄千次郎、その子勝五郎と代々農業を営んできたが、本件養子縁組当時には、勝五郎の子五助(明治二七年九月二四日生)が戸主として家督を相続していた。いさの父長五郎は分家しないまま明治四五年二月一二日いさが一三才の時に死亡し、母とみも大正六年七月二〇日同じく一八才の時に死亡し、姉よし(明治一七年五月生)は明治三八年一二月二〇日桜井家に嫁したが、兄喜一(明治二四年九月生)は大正一〇年三月二九才で、同じく兄新太郎(明治二七年六月生)は昭和一五年一二月四七才でそれぞれ分家した。そして、いさが新倉伊七と婚姻する以前は、三上家と新倉家とは親族関係がなく、三上家が新倉家に奉公人を世話する程度のつき合いであった。父親を早く失っていたいさは、伊七との婚姻前かなりの期間にわたって新倉家に行儀見習として住み込んでおり、新倉家の雇人間ではこの婚姻についていさが玉の興に乗るようなものと取沙汰された。
いさの夫伊七は大正一二年二月に死亡し、次いで新倉家の戸主たるいさの義父林蔵は大正一四年六月一七日に死亡したので、伊七、いさ間の長女の被控訴人は六才で家督相続をしたが、同年一〇月二日被控訴人の新族会員として選任されたのは荒井勝五郎、立川長吉(伊七の実父)、梅室長左衛門(いさの養母タツの実父)の三名で、三上家の当主五助や、いさの実兄喜一らは選任されなかった。
被控訴人は昭和一九年九月一二日婚姻したが、いさの兄新太郎は昭和六年頃から新倉家の同居人として生活し、終戦後も被控訴人所有の土地の一部を耕作したりなどしていたが、その後右土地の所有権をめぐり被控訴人との間に訴訟となり、新太郎の死亡(昭和四一年三月二八日)の直前(同年同月五日)にようやく和解が成立した。
2 いさの養家である荒井家は、代々農業、米屋を営み、また、郵便局長をつとめるなど、相当の資産家であり、後記のとおり、当主は代々伊左衛門を世襲していた。三上家からは、いさの実父長五郎の姉さき(慶応三年一一月二日死亡)が荒井家の当主伊左衛門(いさの養父勝五郎の祖父)の後妻となったことがあり、両者の間の子林蔵は後に廃嫡されて新倉家へ婿養子となった。ところで、右伊左衛門と先妻との子イワ(林蔵の異母姉)の夫として婿養子となった庄次郎は、荒井家の家督を相続して伊左衛門を襲名し、その子伊三郎がこれを継承して父同様伊左衛門を襲名した。伊三郎の弟荒井勝五郎(いさの養父)は明治四二年一二月二六日、二五才のときに分家して一家を創立し、父伊左衛門(旧名庄次郎)の戸籍から除籍されたが、兄伊三郎改め伊左衛門が明治四四年三月二二日に、その子伊七が大正二年九月一日に、同じく長寿が昭和三年八月二一日に相次いで死亡して荒井本家が絶えたため、昭和三年八月二三日、指定家督相続人として荒井本家を相続し、分家を廃家して本家を継承した。
本件縁組は養父勝五郎が姪長寿の後見人に就職した大正八年一二月二七日の直前に行われたもので、当時勝五郎は三五才、妻タツは二八才、いさは二一才であった。
3 いさの婚家である新倉家は、代々米屋を営んでいたが、荒井家から婿養子に迎えた勝五郎(さきの夫伊左衛門の弟、弘化二年六月三日生)が財産をつくり、その子まつとの婿養子として荒井家から再び迎えた林蔵(伊左衛門とさきの子、文久二年五月八日生)が家業を継いで益々発展し、本件縁組当時には荒井家を凌ぐほどの財産家となっていた。右林蔵が荒井家唯一の男子でありながら明治二二年一〇月廃嫡されて翌二三年一月新倉家に養子として入ったのは、明治九年一月異母姉イワ(嘉永六年一月一二日生)と婚姻した庄次郎(嘉永五年一二月二七日生)が荒井家を継承することになっていたからであった。
4 新倉林蔵、まつ夫婦には実子がなかった(長男勝太郎があったが早く死亡)ので、大正二年一二月五日、異母姉立川ふき(イワの妹)の子伊七(明治二〇年七月二六日生)を養子とした。家業に従事していた伊七は前記のとおり予ねてから新倉家に住込んでいた三上いさ(明治三一年一二月一日生)と婚姻し、(結婚式は大正七年一月頃)大正八年四月八日その届出がなされ、同年六月二一日、両者の間に被控訴人が生れた。そして、本件養子縁組は右婚姻届出の一カ月前である同年三月六日に届出がなされた(事実上の縁組は大正七年中になされたとの被控訴人の主張はこれを認むべき証拠がない。)のであるが、その前後を通じていさが荒井家に出入りしたことはほとんどなく、ようやく伊七と婚姻するころ嫁入仕度をして「これから新倉家へ行く。」といって荒井家に来て三時間位いたことがあるだけであり、いさが養親勝五郎夫婦と同居して生活を共にしたことなど全くなかったのである。
≪証拠≫中、右認定に反する部分は前掲各証拠に照らし措信することができず、≪証拠≫は同人が大正八年当時一一才であったことからたやすく採用することができず、また≪証拠≫も前掲各証拠に照らし、右認定を左右するものではない。
以上認定の事実及び前掲の当事者間に争いない事実を総合すれば、本件養子縁組は縁組当事者の年令、生活状態、縁組のなされた時期、養子の生家、養家及び婚家の各状況及び相互間の関係その他からみて、養親子間に実体的な親子関係を形成するというものではなく、婚姻にあたり実家である三上分家と婚家である新倉家との家格を調整し、合わせて、養家と婚家との結び付きを維持することの便法として名目上仮託されたものにすぎなかったものであることが推認される。
なお、≪証拠≫によれば、昭和一四年頃から昭和一九年六月にかけて勝五郎と被控訴人との間に新倉家の不動産の所有権及びその処分代金の授受などをめぐって訴訟が係属し、勝五郎と被控訴人母子との間が全く対立状態となっていた際、勝五郎は昭和一九年一月中のいさの葬儀(死亡は同月一一日)、同年二月二五日の被控訴人の結婚式(婚姻届出は同年九月一二日)に出席したことが認められるけれども、縁組後二〇数年経過した戦時中の昭和一九年に時を隔てず行われた右葬儀及び婚礼に勝五郎が出席したとの一事をもって直ちに右推認を覆えすことはできず、他にこれを覆えすに足りる証拠はない。
そうすると、本件養子縁組はその当事者間に真に養親子関係を設定する意思がなかったと認めるのを相当とするから、その効力を生ずるに由ないものというべきである。したがって、右無効を前提とする控訴人の本訴請求に対する抗弁及び反訴請求原因はいずれも理由があることに帰するから、被控訴人の本訴請求(附帯控訴により拡張された請求を含む)はその余の点につき判断するまでもなく失当として棄却すべきであり、控訴人の単独相続を理由とする別紙物件目録記載の不動産についての所有権確認と被控訴人に対し東京法務局田無出張所において別紙登記目録記載の年月日に同記載の受付番号をもってなした昭和三九年一月二七日相続による所有権移転登記(但し、番号二五、二八、三七の各不動産については所有権保存登記)中、「共有者持分三分の二控訴人、持分三分の一被控訴人」とあるのを「所有者控訴人」と更正登記手続をすることを求める控訴人の反訴請求(控訴人は、前記所有権確認と被控訴人に対し別紙物件目録記載の不動産につき、それぞれ別紙登記目録記載の日に東京法務局田無出張所において同目録記載の各受付番号をもってなした昭和三九年一月二七日相続による持分三分の一の所有権移転登記(但し、番号二五、二八、三七の各不動産については持分三分の一の所有権保存登記)の各抹消登記手続をなしたうえ、控訴人の単独所有名義に更正登記手続をすることを求めているが、前記の趣旨の裁判を求めるものと解せられる)は理由があるから、認容すべきである。
(吉岡 手代木 上杉)